20180124

コンクリートの廊下と下敷きに張った天地真理のシール。




あれは小学校4-5年なのだろうか?
1年先輩に天地真理のシールを貰った覚えがある。
いや。ただの下敷きだったか。
それがはじめてのアイドルを
意識した感じだろうか?

その先輩というのは
男子である。
ただそれは先輩として「やるよ」的なものだろう
それはさらに「やるから応援しろ!」的な
半強制的なものだったと記憶する。
そう言う時代だ。その時、思い出すのは
旧理科室と5年生で使う平屋の棟と
その棟の前にあるコンクリートの廊下を、
なぜか思い出す。
現在は 「友情」「秩序」「奉仕」タイル碑(10/02/15ブログ)がある
約10メートルばかりのコンクリーブロックの花壇だ。
1970-1年頃に出来たのだろうか。
それは天地真理全盛の時代だ。

5-6年のプレハブ校舎と旧校舎のアクセスする
屋根付きコンクリートの廊下にそってその花壇がある。
その一部はこれまたコンクリートで作られた、
山と川のジオラマ(メイン写真)。
これは野外の理科の教材である。
じつはその野外の教材は
雑草に隠れているが、
現在もどっこ残っている。

当時の天地真理の月収は1千万円。
大卒初任給が4万円の時代だ。
とにかく当時は天地真理なのだ。
選択の余地はない。
それ以降個人的な天地真理ブームがやってくる。
平凡、明星というのもの存在を知るのもその頃だ。
20年後まの天地真理がそんなことにあるとは知らない時代だ。
天地真理の歌い方は独特で
鼻にかかるような口いっぱいに使った
上手いんだか下手なんだわかんない歌い方になる。
なので「水色の残された、影を追って〜」が
「水色の残された、ハゲを追って〜」になる。
それは中・高校生時代を音大で声楽を勉強した証なのだろう。
とにかくその声さえ虜になるのだ。
そしてなんといってもデビュー曲の
「水色の恋」。
この曲は当時流行ったポール&マリー系の楽曲だ、
1971年にデビューするのだが、
その前年1970年にヤング720の番組に
「ちいさい私」として歌っている。

http://www.youtube.com/watch?v=6RnMkwUzro0&feature=related

この時がMAXで歌が上手い。
デビュー前が一番歌が上手かった稀なタイプだ。

とにかく天地真理の月収は1千万円なのだ。 

0082
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
この「友情」「秩序」「奉仕」の碑の謎がとけていない。
ただ自分たちが作ったつもりで、そうでないお粗末な結果なようなきがするが
この卒業記念の思い出残しはいまだに釈然としない。
「タイムカプセル」「卒業記念樹」といい闇に葬られる運命なのだ。
2018/0124/1009

ひこしょうプールのデバガメ。




50歳になる現在も
縦横無尽にプールで遊びたい。
時間を忘れて。

レーンワンウェイで泳ぐのでなく、
タテに横に自由に泳げるプールはないものか。
子どもの頃のように。
それも子ども禁止の。
無理か。

6年生夏休みのほとんどはプールで過ごしたのだろう。
それも彦崎小学校待望のプールが完成したのが、
1972年7月。我々にとってはギリギリセーフの6年生の時。
それはそれは嬉しいってものではなく、
プール開き最初の授業の時、
6年男子全員総勢14-5名。
屋根から数センチ開いている
隣の女子更衣室との隙間にダッシュ!そのくらい皆興奮状態なのだ。
いろんな意味で。はあるが。

授業終了後、当然女子から
「のぞきみ」の罪を問われ、
放課後6年の担任中塚先生に
こっぴどく叱られるわけだ。

「おまえらなみたいなのをデバガメというんっじゃ!」と

この言葉は今でも忘れない。
「デ・バ・ガ・メ」。
たぶん我々同級生の男子は今でも
忘れることはないだろう。
これ以来人生の中で二度と登場することはない、
一度っきりのワード
「デバガメ」。
当時はちょっと古いな。と思っいながらも
かなりショッキングだったものだ。

あ。男子全員と書いたが
実は2名だけ、
その不名誉な「デバガメ」たるものに成らないですんだものがいた。
なおちゃんとかっちゃんだ。
共に中村部落なので、
放課後の残されたプレハブの校舎から
2人の帰る後ろ姿は今でも脳裏に記憶されている。
そういえば更衣室での二人は
冷静沈着。ほとんど興味がないのだ。
まさに聖人。いたのだ同じクラスに。

まっとにかく、
彦崎小学校のプールの記念すべき日に
こんな歴史が隠されていたのだ。

写真はあ〜独り占めしたいひこしょうのプール。 

0081
2010-07-23 17:01 
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
写真がとにかく荒い。
現在も当時と同じガラ系カメラ。
10年目のガラ系の画素数は意訳的に延びて
このブログでも耐えられるようになるのだ。
2018/0124/19:03

ひこしょうゆーかり。



再度歌おう。

「児島の山に登る日の〜、光あふれる学舎に〜・・・
二番/栄えある歴史香らせて、すくすく育つユーカリは・・・・・・
知識の枝葉しげらせて〜天に向かって伸びてゆく〜
                  たのんしい彦崎小学校〜♪」

作詞/佐藤末治。作曲松田洋平。

以前にも100本ノックに書いたのだが、
彦崎小学校の象徴ユーカリはこの白い柵のあたりにあった。
高さは今見える蔵ぐらいあったろうか?
直径も1メートルはあっただろう。
根元のあたりで2つに裂けて、
うす緑の少し斜のかかった、
ぼやけた色のユーカリの葉っぱが生い茂る。
そしてそのユーカリの香りは生まれてこの方
体験したことのない香りだ。
言葉で表現するのはかなり難しいが、
青臭い匂いなのだ。
甘いといえば、甘く
決していい香りとはいえない。
どちらかと言えば異国の嫌な匂いがする。
そのユーカリが青く繁り、
春にはこの独特の匂いに被われるのだ。
校舎がユーカリに隣接するため
教室の中までその匂いが届くのだ。

この大木のユーカリは彦崎小学校のシンボルで、
上記のように校歌にも歌われている。
岡山南部はユーカリ、ヌートリアと豪州と深い関係にあるのか。
なぜか豪州アイテム満載だ。
折角だったらヌートリヤよりコアラの方がよかったな。

とにかくそのユーカリの大木は我々が高学年の頃から
年ごとに葉っぱ生え具合に勢いが無くなり、
徐々に元気のないカラカラの大木に変身したのだ。
当時、彦崎小学校は木造旧校舎からプレハブを経て、
隣接地に鉄筋コンクリートの校舎を造るための
大工事が徐々に行なわれていた。
今まで、なれ親しんでいた校庭にはプールが出来、
木造旧校舎は整理された。
それと平行にあのユーカリは少しずつ力尽きるのである。
噂ではシロアリの被害にあったのだと。
本当にそうなのだろうか?
とにかく、生まれたときからあったであろう
ユーカリが無くなることはかなり寂しい。
葉っぱもなくカラカラの大木は
当時かなり長い間放置されていただろう。

気が付いたときには切り株の姿。
そうこうしていると切り株もなくなり、
アスファルトに被われた(写真)。

現在、彦崎小学校にはユーカリはあるのだろうか?
ホームページで確認した限りでは
鶴のいる石庭はあるものの
ユーカリはどこにも見あたらない。
ユーカリ教室というのはあるが、
肝心のシンボルであるユーカリがないのだ。
まるで
「クリープ入れない無いコーヒーなんて」のようだ。
 ダバダ〜。

0101 

0080
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
1000本ノックなのに100本とか書いているし。
そう。我がブログは推敲なし。
なので誤字脱字満載なのだ。
中学の同級生がこのブログを見て
「頭の悪いこのような文章で気の毒におもうわ」
とお褒めの言葉いただきました。
2018/0124/18:50

旧彦崎小学校講堂の映画上映会。



なにをするにも、
この講堂にあつまります。

この写真は確かdemiさん提供。
小さいデータ画像なのだけど
三宅のカッちゃんの顔が確認できるので、
小学校4年以降だろうか。
カッちゃんの顔は目を凝らさなくても見える。
後ろ見ると父兄もいて何かのイベントなのだろうか?
記憶にない。この彦崎小学校講堂は
入学卒業式はもちろんのこと、
学芸会。クリスマス会の季節のイベント。
そして暗幕で真っ暗にしての映画の時間だ。
ほとんどが交通事故防止啓発、線路石置き禁止啓発。
のかなり説教映画全開なのだが、授業を棚上げして
みんなで映画が見れるので嬉しい。

交通事故の映画は本物の交通事故現場を映したもので
リアルに人間の血だらけのカラダが多彩に映し出される。
腕の部分がまるで魚のエラの様な部分のようになっていたのが
印象的でかなりグロイものだ。
大人的には「交通規則を守らなければ、脆くもこんなことになるのだ」
ということだろうが、かなりショッキングなシーンだ。
後々話題になるヤコベッティの残酷物語なんで屁でもない。

「東京ってでーれーきょーてーとこじゃが=」
と当時の子ども達は恐れおののいたものだ。

そんなトラウマ映画のなか一際際立ったのが、
千葉真一主演の「海底大戦争」
半魚人が村の人を襲う怪奇映画だ。
先生も憎いことをするわけだ。
学校で当時大人気キーハンターの千葉ちゃんがみれるなんて!
当時の子ども達は大喜び。
確か娯楽映画は後にも先にもこの一本のみ。

華麗なる千葉ちゃんのアクション
http://www.youtube.com/watch?v=WLZ4EEHk4iw

しかし映画で見る千葉ちゃんも切れのいいアクション
男子は大興奮。
放課後はアキヤサンの崖に集合して
キーハンターゴッコだ〜。
愛犬ゴンも連れていこうっっと。

0079
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
講堂。といえばここ。
壇上。黒い幕。グランドピアノ。
そして後方の手書きの灘崎干拓マップ。
2018/0124/18:42

フルーツパラダイス彦崎駅裏道通り(または丸髙通り)




1977年の写真。
たしか初夏といったところ。

イチジクの木はちょうど小池電気の
黄色の看板向こうに見える木ではなかったか?
私の記憶ではそこにありました。
そしてそのもっと丸髙よりに「クルミの木」が数本。
因みに我が家畑は小池電気側。丁度写真の下あたり。
ここに梅の木と桜の木、ナツメの木がありましたね。
梅と桜は生まれたときからあり、
シーズンには実をつけ袋をかけるのだけれど
いつも虫に食われて一度も口に入れたことはない。
親父の面倒見の無さを恨んだもんです。
それに引き換え中学校のころ植えたナツメの木は
毎年沢山の実をつけたものです。
そのまま食べられるナツメの実は
例えばリンゴのような食感で味も少しにている。
イラガが多いのは玉に瑕だが、
食べられるものが庭にあるのは楽しい思い出です。
でも、今はなにもないなんて。

彦崎駅のこのあたりは今では整地され、
公園のようなものになっているけど、
昔はこんなに生い茂っていたのだ。
木製の倒れかけた進入禁止のフェンスも
いまでは懐かしい。
当時彦崎駅裏側には正式な出口が無かったので
この緑生い茂るなかにいつのまにか獣道ができ
自然とホームに続いている。
人間とはなんと恐ろしい物か
誰がつけたかホームに上がる木の簡易階段なるものも
あったように記憶する。
通学の折は常に上り電車と並走し、
電車の運転手に乗車意欲をアピールしなければ行けない。
それも入っていけない入り口から平気で搭乗。
だって近いんだも〜ん。

また、
よく見ると国鉄の土地でもあるにもかかわらず、
作物を植え畑にしている大らかさもいい。
いまでも大空ストアー側には
畑があったような気がする。
諸々考えると、
彦崎駅周辺の土地は暗黙うちに
自由区域なのだろう。
と言うか共存共栄。
たぶん。

そして、
遠くを見ると馬場桜土手方向も
まだ田圃で家は見あたらない。
彦崎通運の木造倉庫も縮小したといえども、
辛うじて残っている。
遠くの「麻生セメント」は存在しているが、
「灘崎セメント」はまだ存在していないのか?
一枚の写真から数多くの発見があるが、
これはまたのお楽しみに。
とっておきましょう。

0078
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
今年(2017年末)帰省したおり、
この沿線畑が一切なくなって、ファンスが張り巡らされていた。
昔をしっているものは、なんだが世知辛い世の中になったものだと。
昔はこんなに緑往々しい。
2018/0124/17:50

さよなら国代材木店。音の記憶。




昨夜、滅多に電話のない母から
突然のニュースが飛び込む、

「あんた。餅つき用の材木。
       もう、もらえんからな!」
このあと(覚悟せられ〜よ)というぐらいな勢い。


彦崎で丸髙工業に続き広大な敷地を有する
「国代材木店」。
当時は丸髙の機織りのカタカタという音と
宇野線を挟んでの
国代材木店のチェーンソーで木を切る音は
札場、礒その周辺では必須な生活音だ。
カタカタ。キュイ〜ン。
キュイ〜ン。カタカタ。
一見うるさい音のように思えるが、
この音がないと夏の昼なんて寝られない。
彦崎にとって大事な音なのだ。
丸高が撚糸業を止めたのが、
たしか35年ばかり前だろうか?
そのカタカタ音はそうそうに聞くことはなく、
残る国代材木店の木を切る音。のみ。
彦崎効果音金熊賞があれば、
必ず受賞することだろう。

とにかく彦崎には欠かせない音だったのだ。
その「国代材木店」がどうやら、
店じまいしたらしい。
またひとつ彦崎の文化が終わりを告げたらしい。

最近では年末の餅つきの為の
クズ材木を頂きにいっていたものだ。
それも出来なくなり、確実に迷うこと必至。
とにかくあの敷地はもう既に新地になっているという。

たぶん巨大住宅地にでもなるのだろう。
彦崎の歩む道は
巨大ベッドタウンとかするのか?
我が家隣の三角地も住宅が4件もたっているという。
あんな狭い土地に4件も。東京並みだ。
とにかく彦崎住宅計画はまっしぐら。

マルナカも巨大化しているらしいし。
変わりゆく彦崎ってとこですね。

写真は1976-7年頃の国代材木店と駄菓子屋アンドー。
大空ストアーも現役時代のころ。
0077
2010-06-29 14:29 
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
国代材木店がなくなって8年になるのか。
毎年年末のもちつきも続行中。
つく臼数も年々減少でことしは10臼ついただろうか?
なので燃料の材木も当初の1/3程で事足りていて
残る2年。2020年まではいけそうだ。
2018/0124/17:43

常山出身と言われる。明智左馬助。 



加藤廣著「信長の棺」に引き続き、
信長遺骸完結編第三弾「明智左馬助の恋」。
冒頭P16

三宅弥平次ーーー。
生まれは備前の南端・児島半島の常山。
父は地場の国人(地元武士)で、三宅徳置といった。
弥平次は、その次男である。
幼名は光春。
天文末期、まだ十歳足らずの頃、父の命令により故郷を離れ、
元主筋の細川家を頼って経に向かった。当時、児島半島の国人は西は備前は宇喜多勢、
東は備後の毛利勢の態勢に一呑にされてしまう存在。
また、三宅氏の祖は後醍醐天皇を隠岐脱出の手助けをし、
足利尊氏を最後まで苦しめたと言われる
児島高徳とされる。
そのため逆賊とされ、備中細川家傘下に見よせる。

とにかく弥平次は細川宋家に。
そして細川元常に預かられたが、
元常の歌道の友である明智光秀のもとえ。
そして光秀の叔父・明智光久の養子として迎えられる。
ただ、明智家家系図では童名の光俊と偽称され、
出生も隠蔽される。
それもすべて足利将軍家から三宅氏の
身元隠しの工作と考えられている。

とにかく三宅弥平次は明智光春(明智左馬助)又は秀満とされている。
しかし、その人物は実在したかどうかは定かではない
というのが現在の説である。

明智左馬助は本能寺を襲撃した後、
安土城の守備についたが、
羽柴秀吉との山崎の闘いで光秀が敗れ、
左馬助は城を本来の坂本城に移し自害。


0076
2010-06-05 12:04:52
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 
思いがける隣町の名前などが目に飛び込んでくるとうれしいもの。
この8年でこれ以降なのだが
まるで我が祖先のように、いや祖先も挨拶ぐらいはしただろう。とか思うとうれしい。
架空人物でもうれしい。
2018/0124/17:35


2つ前の記事「大谷」からグルッと向くと「用木」



時計回りに15度ぐらい向きを変えると、
この景色だ。家の見えるアタリが「用木」ということか。
メインの山が熊山。
方向的には真南に向かっている。
なのでこの方向にずっ〜と進むと瀬戸内に出る。
直線で結ぶと約9キロ。
海に出るまでアップダウンのある山道なので
3-4時間といったところだろうか?
一度試してみたいところです。考えてみると太陽が差し入る方向がこちらなので、
家の窓はほぼこちら向きで、
自然と住んでいる人々も
こちらを向いて生活をしているようでさえ思える。
なので札場から見ると、
目にはいるのはこの熊山がド〜ンと見える。
熊山の背後にタコラ山という彦崎で最高峰の山もちょっぴり見えてて
彦崎的には守護山といってもいいのかもしれない。
とにかく、何をするにもこちらに向いている。

そしてやっぱり素晴らしいのは、
この景色は4-50年前とほぼ変わらないこと、
住宅地が徐々に南下(彦崎では山奥の方向)しているが、
まだ20年ぐらいは頑張れそうな気もする。

以前にも1000本ノックの終盤で書いたのだが、
この熊山の昔の写真では山腹は禿げており、
頂上にどうやら急斜面を牛・馬を追い上げていた。



頂上には小さな堂宇があり、
用木・大谷の人々が
児島・曽原(たぶん八幡神社)から大般若経を上げて、
隔年供養していたらしい。
そこでは牛・馬を直すといわれ
当時、頻繁に行き交いがあったされている。
現在は木が茂り、その陰もない。

その麓の「用木」は、時の如く
藩主池田港の御用材を出していたらしい。  

0075
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
2010年からすでに8年。
ここはいまだに変わらないといったのも束の間
このあたりはいまでは一戸建てが建ち始めた。
当時20年は大丈夫みたいなことを描いていたが
あと12年後の2030年にはどんなことになっているだろう。
2018/0124/14:18