20180124

常山出身と言われる。明智左馬助。 



加藤廣著「信長の棺」に引き続き、
信長遺骸完結編第三弾「明智左馬助の恋」。
冒頭P16

三宅弥平次ーーー。
生まれは備前の南端・児島半島の常山。
父は地場の国人(地元武士)で、三宅徳置といった。
弥平次は、その次男である。
幼名は光春。
天文末期、まだ十歳足らずの頃、父の命令により故郷を離れ、
元主筋の細川家を頼って経に向かった。当時、児島半島の国人は西は備前は宇喜多勢、
東は備後の毛利勢の態勢に一呑にされてしまう存在。
また、三宅氏の祖は後醍醐天皇を隠岐脱出の手助けをし、
足利尊氏を最後まで苦しめたと言われる
児島高徳とされる。
そのため逆賊とされ、備中細川家傘下に見よせる。

とにかく弥平次は細川宋家に。
そして細川元常に預かられたが、
元常の歌道の友である明智光秀のもとえ。
そして光秀の叔父・明智光久の養子として迎えられる。
ただ、明智家家系図では童名の光俊と偽称され、
出生も隠蔽される。
それもすべて足利将軍家から三宅氏の
身元隠しの工作と考えられている。

とにかく三宅弥平次は明智光春(明智左馬助)又は秀満とされている。
しかし、その人物は実在したかどうかは定かではない
というのが現在の説である。

明智左馬助は本能寺を襲撃した後、
安土城の守備についたが、
羽柴秀吉との山崎の闘いで光秀が敗れ、
左馬助は城を本来の坂本城に移し自害。


0076
2010-06-05 12:04:52
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 
思いがける隣町の名前などが目に飛び込んでくるとうれしいもの。
この8年でこれ以降なのだが
まるで我が祖先のように、いや祖先も挨拶ぐらいはしただろう。とか思うとうれしい。
架空人物でもうれしい。
2018/0124/17:35


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