当初はラーメンブログだったど。既存のブログのバックアップ用に返信。 広告もなく、写真も大きく入力し易い。 世の中で一番描きやすい媒体。ただ、閲覧数がめっきり少ない。
20180117
児島郡灘崎町大字西高崎。
児島の山を遠くに
ながめる西高崎
どうやら東高崎があるらしい。
昔からありましたっけ?東高崎。
そのぐらい西高崎の印象が深い。
とにかく東に西に灘崎を横長にだ〜と長い。
国道30号線を境に睨みを利かせる西高崎。
まさにほぼ七区と同じ直線の格子道路。
農道、用水路沿いに等間隔民家が並ぶ。
それもそのはず、児島湾干拓の古参に入る存在だ。
1906年4月児島郡灘村全域と彦崎村が合併した際、
この西高崎も加わっている。
児島湾全面干拓を構想・計画した当時の岡山参事「高崎五六」から
その名前を付けたのが西高崎。らしい。
高崎五六は薩摩藩士。井伊直弼を襲撃、寺田屋集会、長州征伐等に
絡む幕末の動乱には欠かせない人物と言われている。
維新後、改正に難航する岡山の岡山県令に務める。
のち東京知事を務めたりもしたらしい。
その後、児島湾沿岸の漁場・治水障害を理由に反対運動勃発そして難航。
その間、約13-4年を費やし
何代目かの岡山県知事・高崎親章の事業決定を待たなければいけない。
干拓推進に寄与した人物が共に高崎姓。
それもそのはず共に薩摩藩出身。なのだ。
なださきに薩摩の影。これはおもしろい。
とにかく、児島湾干拓第一区が竣工したのが
1905-6年といわれている。
グーグルマップの航空写真で
田畑のモザイク柄を見ると年代が分かる。
まるで年輪のようだ。
干拓は山際より始まるわけで、
川張・片岡沖に北北東の方向に
やや不規則に、小分けにされたのを第一弾にすると、
さらに沖、北北西の方角から南南西の方向に約3キロ。
国道30号線、紅陽台の手前1キロが第二弾。
ここが西高崎だ。
道路、敷地は第一弾とはうって変わって規則正しい。
沖に行けば行くほど規則正しく整理されたモザイクを
見ることが出来る。
なださきの9割方がこのモザイク模様と言ってもいいくらいだ。
さよならなださきまで
あと3日。
0074
イラストは西高崎から見た常山ファーマーズ。たぶん。いや藤田あたりかな。
0060
2010-03-19 14:32
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
こうやって、なださき町見ると
開けた大地が印象的。
生まれ育った場所だから不思議じゃないけど
少し外国のような感じもしてきた。
風に舞う大量の砂ホコリ。まるでバクダットカフェみたいな。
2018/0117/13:32
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿