20171208

ひこちゅうのおなか



 彦﨑小学校、灘崎中学と片岡・灘崎小学校横の灘崎給食センターから送られてきた給食を食べることになる。その灘崎給食センターは1966年3月に完成し、4月より開始となる。ちなみにその年にこれまた灘崎小学校にプールが完成している。学校給食法が出来た1954年から数えて8年後ということになり、1966年まではどうしていたのだろうか「ひこきゅう」?給食なんて存在しなかったのか?当時、我々が小学校へ入学したのが1968年すでに灘崎給食センターからの給食の配給は始まっていた。ただし、記憶にあるのが当時の彦崎小学校には講堂と職員室の間に給食場があり、そこで「大きな窯に乗った鍋で牛乳を作っていた」ことを覚えている。あれはいわゆる「脱脂粉乳」ということだろう。かなりあの独特のニオイに参った人が多いらしいが、個人的には大好きだ。といことで給食センターが出来るまではこの給食場で簡単な料理は作っていたのではないか?当時の「給食のおばちゃん」は磯の藤原さんだが、我々は「藤原のおばちゃん」と呼んでいたと思う・・・・・
 小さい体なのに声は太い、温厚でやさしくかなりみんなが懐いていたと記憶する。そのおばさんも1969頃辞めてしまうのだ。たぶん灘崎給食センターが出来たからかもしれない。とにかく「藤原のおばさん」が辞めてしまうのでかなり残念に思ったと記憶する。因みに「藤原のおばさん」は後々。観世流の能楽の師匠で日曜日の20時から「うたい」を教えていたのだ。そういえば「藤原のおばさん」は声が太く、かなりドスの利いた渋い声だったのを思い出す。とにかく「藤原のおばさん」は彦崎小学校を去り、「脱脂粉乳」はなくなり、灘崎給食センターから給食が運ばれるようになったわけだ。銀色のアルマイトに分けられた食事。ビン入り牛乳と脱脂粉乳の間にちょっぴり「三角テトラパック牛乳」の時代が懐かしい。永遠に「テトラパック時代」が続けばいいのに・・・と悔やまれたものだ。パンからソフト麺、黄色細麺そして米飯の怒濤のような給食変革時代を体験した1970年前後は我ながら自慢に思うしだい。そしてその「灘崎給食センター」も今年(2009年)4月から調理業務を民間委託となると言われる。委託方法は随時契約で業者を決定。当面の灘崎町担当の株式会社セントラルフーズの求人では日祝日週休二日。勤務時間は8:00〜17:00、雇用、労災、健康、厚生、財形保険加入。単身だと入居住宅アリ、マイカー通勤もOK。しかし通勤手当はなし。年齢、学歴、経験共に不問。しかし必要な免許資格は調理師又は栄養士。しめて月給16万円。そんな「灘崎町給食センター」からひこちゅうは育ったことになるのだ。
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2009-09-29 19:50:11
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彦崎基本編はまだまだつづく。
そして、このブログは調べられるものは調べ尽くしてみようと決意。
すると面白い関連性が発見できたりしたジャーナリズム精神を満たせる一投。
ジャーナリストじゃないけど!
2017/1208/14:11

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