20171221

秋葉山大権現。アキヤサンのまとめ。



誰が当時アキヤサンの間を
自動車で走ると想像しただろう。



3)秋葉山(アキヤサン、アキバサン、アキワサン)の上には秋葉山大権現といって火事の神様を祭って、中村、磯の人がお世話をしている。昔この付近に火事がよくおこるので、神様を祭ってから一度も火事が起こらなくなったので、毎年正月、五月、九月にお祭りをすることにしている。前にはその時の浄瑠璃やおどりをした後で会食していた。今では会食の習慣だけ残っている。(注)大権現は東向きに立てられ、高さ一メートルの石である。標高五十メートル。(昭和五十七年十月一日発行灘崎町史より)

以上は現在ある秋葉山の唯一の資料である。
果たして秋葉山大権現とはどこにあったのか?

現在は山を取り壊し、建て売り住宅地に姿を変えているため
その答えを確認することはできない。(写真左の小高い団地)
秋葉山の「山崩し」は100年前の味野駅(彦崎駅)盛土に始まり、
我々が見た最初の秋葉山も北側が全面土色、
テッペンに素通しの小屋が見えるばかり。
すでにハゲ山化した姿が我々のアキヤサンだ。
頂上の一軒分の小屋は屋根と壁のみ。正面と背面は大きく開いていて、
待合室のようでもあり、門のようでもある小屋があった。
大権現は標高50メートル、東向きに建てられた高さ1メートルの石とされるが、
稲荷山が標高155メートルと言われているので
標高50メートルは約1/3の位置。
・・・・・・・・東側。となるとやっぱり昔見たこの小屋より東側の大石
(表面に出ているだけ2-3メートルはあった大石のことか?)
その子供が数人乗れる丸味を帯びた大石。
たしかその近くに小さな神様が祭られていたあのことか?
その大石と地面の間に子供がギリギリ入れるような穴が開いていた。
これも何かの意味があったのだろうか?

しかし、灘崎町史では「秋葉山の上に秋葉山大権現がある」とされている。
あの大石は側面に位置した、たしか大きく言えば「下」だ。
ということは他の位置にもあったのか?
では、あの大石と祀れていたのはなにか?

すべて今では確認することもできない。
ただ人が運ぶことのできない丸味を帯びた
鬱蒼とした山肌からか顔を出していた大石は
子供にとっては危険地域としての記憶がうっすら残るだけだ。

秋葉山大権現は701年静岡県浜松市に神社を開いたとされている。
江戸時代・徳川綱吉(1870前後)の時代に「火防(ひふせ)の神」として日本全国で大ブレークし、広く「秋葉山大権現」の名前が定着したらしい。
明治時代の神仏分離令の憂き目にあったりもしたが、なんとか村民により残されたことがこの灘崎町史に伺える。
しかし、現在はどうなのでああろうか?
浄瑠璃やおどりもみたいが、会食に加わりたいものだ。

この麓である馬場、狐崎周辺は我々が居た18年間の間も、
特に狐崎においては数度火事を目撃したものだ。
彦崎唯一の密集住宅地ではあるが、
かなり摩訶不思議な話でもある。
0062 

0049

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
しかし、このシリアル番号の開きの差がすごい!
当時のこの段階の番号が0062。に対し正確には0049。
13記事の開きはどこからくるのか?
自分でやっておきながら、ほとほとあきれる!!
2017/1221/17:48

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