20171221

彦崎札場部落 丸髙工場女子寮。



ウラに
ゆめの女子寮。


レンガ作りの丸高工業は、明治40年ごろ彦崎磯で織物工場を営んで若松善三朗氏が大阪高砂に製品を送っていたことから始まると言われている。彦崎の織物業は明治34年中島織物工場(大久保/現役)が手織り機を導入し、界隈には56件の織物工業が存在していたほどの織物の街でもあった。とにかく丸高工業は彦崎工場としてここ札場に明治40年に大阪からやってきた。ピーク時には200人の従業員と246台の織機がフル稼働していた。その製品は大阪鐘紡紡績淀川工場に出荷され、加工されていたという(灘崎町史参照)。
時は1960年中盤。
彦崎札場には丸髙団地。
工場敷地内に広場を挟んで、
男子寮と女子寮(写真)が存在した。
広場は昼休み、休憩時間になるとバレーボール、
野球など賑やかだったことでしょう。
ある時、一度この広場で
エレキ合戦(GSバンド来訪)が催されたことを、記憶する。・・・・・7-8歳のころだから1960年後期か?
一番彦崎が活気のある街だった時かも知れない。

上下7-8部屋の木造2階建て男子寮は宇野線側に
そしてほどして広場彦崎小学校側に鉄筋の女子寮が完成する。
約16部屋(一部は食堂、宿直室)を有する鉄筋2階立
男子寮は足元にも及ばない立派なものだ。
いつ完成したのか記憶にないが、
立派な女子寮が完成したのもにも関わらず、
入居者で賑わった記憶もなく、
お茶を濁す程度で、
いつのまにか不夜城化したことと記憶する。
その姿は不気味で、
囲まれた格子鉄線の策が痛々しい。
とにかく人が住んでいた記憶が少ないのだ。
・・・・・・
薄ブルーの四方を囲む柵は、
外からの侵入を防ぐのではなく、
建物の中から出てくるもを防いでいる
ようにも見えてくるは不思議だ。

彦崎小学校側にある敷地もかなり広く。
角には小さな民家があったことも記憶する。
この民家もいつの間にかなくなり、
荒れ地となっている。

その女子寮はほぼ半世紀を過ぎ
21世紀の今でも
ひっそりと佇んでいる。

0045
2010-02-08 14:22:32
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
ヒコブログも序盤も序盤。
今は考えられないくらいに出しお惜しみなく
メインどころの記事が連発。
この寮は将来壊されるだろうため
早めに記録した模様だが、いまだに実存。
壊すのにも大変なのだろう。
機能しなくなってすでに45年ぐらい経っているはずなのに
2017/1221/16:52

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