20171208

発見!「味野駅」路線地図



まず、絵を見ていただきたい。
ほんとうにあったんだ。


「味野駅」。生まれたときから彦崎の世代は以前、味野駅であったと聞かされても実感がわかない。味野と言えば児島市の児島駅周辺だし、ピンとこない世代だ。しかし一瞬、彦崎村の駅が「味野駅」という名になったことがあった、というか1910年(明治43年)に宇野線開業当時から1914年(大正3年)彦崎駅に改称されるたった4年間「味野駅」であったのである。これがその証拠の写真だ。これは吉田利七さんのブログ「利七屋孫兵衛の日記」に掲載されていたもの。吉田さんは自前の資料を細部にわたって公開、世代ははるか30年前のギャップはあるものの、かなり興味深いものだ。その吉田さん資料『鐡道新地圖』(東京滑稽社発行)は「駅名改称」により大正3年以前の発行であるところまでたどり着いた。「味野駅」。話には聞いていたが、このように事実であった証拠絵を目の辺りにすると更に過去への想いが募る。時は大正時代。1914年と言えば直接的ではないが、第一次世界大戦が勃発した年でもあるわけだ。日露戦争の勝利によるところの国際緊張緩和による大正デモクラシーという安定期と言われている。1911年には国内初の純国産機の成功、生産。ようは戦前の国鉄イケイケ時代といったところだろうか・・・・。それでは路線地図を見てみよう、当時はまださほど児島湾干拓は今ほどではなく、宇野線の岡山ー宇野間は海岸線を走るため大きく西へカーブしている。その児島の中心地に最も近いということで作られること事になる「味野駅」着手は1906年(明治39年11月)、そして1910年(明治43年)に着工。味野駅の設立には最寄りの秋葉山の土を使うことになる。どおりで生まれたときからかなりのハゲ山ぶり。駅設立当時の味野駅周辺は人家はほとんど無く、児島へのアクセスポイントとしての役目からの選択は否めない。味野駅完成後、全国からの人々は味野駅で降車し、児島の中心部まで人力車を飛ばしたという話が残っている。その当時の人はこの「味野駅」イコール児島市内と勘違いした人も多く、下車して人家の無いただただ広い彦崎村の風景を目の辺りにして愕然としたらしい。目的地の児島市街地は一山二山越えた遙か彼方。「味野なるかと降り立ち見れば、狐崎にてだまさりにける」と当時の人は歌ったらしい。その誤解もある「彦崎駅」と改称したかはさだかでない。(吉田利七さんのブログ「利七屋孫兵衛の日記」より転載。ありがとうございました)
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吉田利七さんのブログ「利七屋孫兵衛の日記」

http://blog.livedoor.jp/yasu_65/


記載ページ(『結びついた複数の資料』(見直しその3))

http://blog.livedoor.jp/yasu_65/archives/1078606.html


2009-11-11 12:38:39

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やはり情報としてしっかりしたものを提供してみたい。
また、発見したものはマメにアップしたい。
という飽くなきジャーナリズム精神がうずきました。

吉田さん許可をもらって掲載。
当時すでに高年齢ぽかったけどお元気ですか?

2017/1208/17:10

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