20171207

ひこちゅうのなりわい。



彦崎といえば彦崎貝塚。といっても大々的に世間で知られているわけでもなく、よくみかける発掘作業の記憶もない。しかし、この貝塚により彦崎人は縄文時代前期には存在していたであろう事は彦崎人にとって重要だ。旧児島湾に面した下海岸段丘上標高5-6メートルに位置する 。現在の岡山県児島郡灘崎町彦崎字西ノ土井に所属する「彦崎貝塚」。貝塚には胎児3体、若年3体、青年男子5体女子2体、中年男子2体女子3、老年男子2体、計25体の埋葬された人体によりかなりの人数の集落があったこと・・・・・

イノシシ等の装飾品、貝類、獣類の骨、により瀬戸内の外との交流もあったこと。貝類と地層により、縄文時代初期は干潟、中期は岩礁、後期は干潟と岩礁、そして縄文時代は干潟と変遷していった経緯がわかった。海山の幸にも恵まれたことも付け加えておく。そして最近(2005)に縄文初期である「大量イネのプラントオパール」が発見され、約6500年前に稲が存在と言われている。東アジアにおける稲作は8000年前に始まり、日本への渡来時期は約4000年前と言われる。かなりの記録更新だ、本当だとすると。このプラントオパールの中には小麦、キビ、ヒエ、アフリカ原産のシコクビエ、コウリャンなども少量含まれ、これも共作していたら偉い騒ぎだといわれている。とにかくこの時代は現在のほとんどの人口である岡山市、倉敷市は海の中であり、半端ではない遠浅の海を前にかなりの漁場の濃い地域であったはずではないか。しかし、室町時代後半から始まる児島湾干拓事業によるその漁場を除々に奪われ、湾頭陸岸の干拓成功地から畑地→稲田を営むようになる。一部塩田も営まれていたというが、その事実を証明するものは今はない。長期の干拓事業による町は潤うが彦崎の農業に小作であり、副業で縫製業、毛むしろ業が盛んであったらしい。近年ではその縫製業も影をひそめ、これといった「なりわい」も無く、中途半端なベットタウトとしてその役割を終えようとしている。
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2009-09-14 19:04:06記
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
ひえ〜ちょうぶん!
8年前から暇だったのね。
「ひこちゅう」の説明はつづく。
2017/1207/18:55

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